2017年9月13日水曜日

河の復活公演 『詩と劇に架橋する十三章』 @CoCoDe 

NHKの「北海道クローズアップ」をご覧になりましたか?


みごとに再起動した「河」


 まずは復活公演の大成功を祝します。
 31年のブランクからの再出発には、莫大なエネルギーと熱意がなくてはなしえないものだったはずです。星野由美子さん、豊島勉さんはじめ、関係者の皆さまのご尽力に心から敬意を表します。

 かつてのアングラ劇を知るものにとっては、懐かしさと後悔と気恥ずかしさ、誇らしさと胸の痛みと甘美な回想、なんとも複雑な心境が一気に溢れ出てくる刺激的な公演でした。

 若い劇団員のみなさんは実によく頑張っていました。
 劇中の現代詩には、ほとんど馴染みがない世代の方にとって、それらを自分の血肉として取り込むのは、並々ならぬご苦労があったことと推察いたします。


新生「河」に期待する


 聞くところによると今後も「河」としての活動が続くとのこと。大きな楽しみを提供してくださるのですね。
 でもそれは、アングラ劇のコピーであってはなりません。現代劇へと橋渡しするものでないとなりません。「河」が復活する意味はそこにあるはずです。

 小説家の吉田篤弘氏は、『ソラシド』の中で、1986年当時の感覚を「自分の五感は常にザラザラゴツゴツとした、決していい感触とは言えないものの表面をなぞっていた。それらは粗悪な安物で、どういうわけか灰色の冬の空によく似合っている」と記しています。
 とするなら、アングラ劇が最も盛んだった時代は、誤解を恐れずにいうなら、より一層「粗悪な安物」だったと言えるかもしれません。批難しているのではありません。「粗悪な安物」とは、現代のツルツルとして何の抵抗(引っ掛かり)もない表現との対比として述べたのです。

 確かに現代の表現は洗練されています。カッコいいです。しかし終わってみれば、「あれっ、何だったんだっけ?」という疑問とともに消滅してしまいます。

 かつてのアングラ劇は「粗悪」でした。「粗野」で「粗暴」で「神経を逆なでする」面が拭いきれませんが、ものごとの本質を鷲掴みする「鋭さ」「繊細さ」「大胆さ」に富んでいました。さらに常識に凝り固まった私たちを、根底から破壊する力強さがありました。強烈な印象を残してくれました。だから芝居が撥ねて数ヶ月経ったある日、芝居中の台詞が不意に口を突いて出る、なんてことがありました。

 私にとっては唐十郎氏の『夜叉綺想』という芝居の中の台詞、
「ねい、ちょいと。都コンブを買いはしませんでしたか?」
なのですが・・・。
 この「は」の使い方に痺れたのです。


アングラ劇の現代における強み


 現代劇の洗練とアングラ劇の大胆さ、
 どっちがいいのか、悪いのかではありません。
 どっちも(さらにもっと多様なものが)同時に存在すべきだと考えています。

 そういう意味で、劇団「河」が、70年代のアングラ劇と現代劇を「架橋する」存在であって欲しいのです。
 他の演劇集団とは、ものごとを見る視点、解釈する角度、表現する手法において、さらに劇団自体の姿勢が全く異質な存在であって欲しいのです。

 春夏秋の空(見栄えのいい景色)ばかりになってしまった現代劇に、吉田篤弘氏の言葉を再度借りるなら、「冬の空」の厳しさが持つ身が引き締まるような厳しくも美しい世界を提示できる存在です。


ノイズの効果



 さらに三度目の引用になりますが、吉田篤弘氏が言う「おしなべてツルツルピカピカとノイズを排してしまった(これも『ソラシド』からです)」現代の私たちに、気づかせて欲しいのです。 けっしてクリアであることだけに価値があるのではない、雑音の中に、よくよく耳を澄ませると、本質に迫る微妙な音が発見できることを。



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