あれま、「七人」が続きました
期せずしてT☆Sプロジェクトは「髑髏城の七人」を11月25・26日(土・日)に、市民劇場では12月4・5(月・火)に「七人の墓友」を俳優座よって上演します。両方とも題名に「七人」と人数が明記されている芝居を上演する。
「七」という数字は、洋の東西を問わず独特の位置を他の数字と比較して持っている。それらについて言及すれば、何年の時間を費やすことか計り知れない。そこで芸能・芸術の範囲に絞って考えたい。
この国では、「七人」といえば、「七人の侍」が思い浮かぶことにいつの間にかなっている。
「七人の侍」が思い浮かぶ御仁はきっと「七人の刑事」もあるぞ、と口をもぞもぞされていることだろう。「荒野の七人」なんてのもございました。しかし平成生まれのひとは「なんじゃ、それ」かもしれない。
なんで「七人」?
上記の三つの「七人もの」に共通するのは、圧倒的に強力強大な巨大組織にどう見たって勝ち目のない弱小集団が刃向かう、という大まかな対比が成立する物語だという点だ。 だから最後は善戦虚しく・・・という塩梅を想像できちゃう、という設定だ。(これが中国の場合だと、弱小集団ではなく、たった一人で立ち向かう”墨子”となるところが、ウーッム凄いなぁ)
成り立つ弱小集団とは?
つまり、「七人」というのは、最弱最小の集団だということだ。これ以上だと中途半端になり、これ以下だと集団組織として成り立たないということなのだろう。(「7」が”奇数”でしかも””素数というところに浪漫を感じる人もいるかもしれない)
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では、それはどういう集団なのか?
それは全滅、もしくは全滅とまでは言えないものの、それに近いダメージを受けることが決定的だと予測される集団だ。どう見ても勝ち目はない。負け目(そんなものがあるのか知らないが)なら売るほどある集団だ。そんな集団の構成員は命を失うことは致し方がないと考える。自分の将来にわたる命に希望を見いだすことができないとしたら、何を彼らは望むのか?
彼らは命を差し出すことの代わりに、自分たちが存分に力を発揮し縦横無尽に戦いまくったことを後世に伝えられることを望むというか、それぐらいしか望むことがゆるされないのだ。最も大事な命と引き換えに自分の生きた物語が語り継がれることを欲望した。しかし、そのためには自分たちと行動を共にし、しかも最後まで生きのこる人間がいなくてはならない。
それが「七人の侍」では、勝四郎なのである。勝四郎は未熟な侍である。それでも彼を仲間にしたのは、語り継ぐ者として役割を負った者だからなのである。六人の侍は、懸命に勝四郎を教育する。一人前の武士でなければ、自分たちの生きてきた有り様を、語り継ぐことが適わないからだ。
そのためにこの「六人の侍」たちは、勝四郎をどんなことがあっても死なせてはならない。つまり、勝四郎という一番弱い者を自分たちのまとまる軸に置いて行動することになる。
闘いの集団なのだから剣術の巧みな者、怪力の持ち主を雇えば良いと考えがちだが、なんとも非力な勝四郎が彼らにとって最も必要な存在となるのである。
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注 ****************************で囲まれた範囲は、
内田樹氏の「『七人の侍』の組織論」
に依って考えました。
ぜひリンクから閲覧してください。
集団形成についての示唆に富む論考です。http://blog.tatsuru.com/2010/11/22_1626.php
そういえば、ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)のビルボ・バギンスと養子のフロドも「旅の仲間」であるとともに、「語り継ぐ者」でしたね。
フロドは「指輪物語」を書き終えると、「中つ国(この世)」からエルフとともに去って行きます。
「七人」の謎
少々長くなりますが、重要のところなので、先ほどの内田樹氏の「『七人の侍』の組織論」を引用します。
**************************** 以下は引用です。
「リーダー勘兵衛」(志村喬)、
「サブリーダー五郎兵衛」(稲葉義男)、
「イエスマン七郎次」(加東大介)。
7名中の3名が「リーダーが実現しようとしているプロジェクトに100%の支持を寄せるもの」である。この比率は必須。
「イエスマン」はリーダーのすべての指示に理非を問わずに従い、サブリーダーは「リーダーが見落としている必要なこと」を黙って片づける。
その他に「斬り込み隊長久藏」(宮口精二)
と
「トリックスター菊千代」(三船敏郎)
もなくてはならない存在である。
自律的・遊撃的な動きをするが、リーダーのプランをただちに実現できるだけの能力をもった「斬り込み隊長」の重要性はすぐにわかるが、「トリックスター」の組織的重要性はあまり理解されていない。
トリックスターとは「二つの領域にまたがって生きるもの」のことである。それゆえ秩序紊乱者という役割を果たすと同時に、まさに静態的秩序をかきみだすことによって、それまでつながりをもたなかった二つの界域を「ブリッジ」することができるのである。
菊千代は「農民であり、かつ侍である」というその二重性によって、絶えず勘兵衛たちの「武士的秩序」を掻き乱す。だが、それと同時に外見は微温的な農民たちの残忍なエゴイズムを自身のふるまいを通じて開示することによって、農民と侍のあいだの「リアルな連帯」を基礎づける。
七人の侍のうち、もっとも重要な、そして、現代においてもっとも理解されていないのが、林田平八(千秋実)と岡本勝四郎(木村功)の役割である。
平八は五郎兵衛がリクルートしてくるのだが、五郎兵衛は自分がみつけてきた「まきわり流を少々」という平八をこう紹介する。
「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが。」
五郎兵衛の人事の妙諦は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。
私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。
だが、企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが(「麻雀をしたことがある人間なら」と言い換えてもよい)、組織の運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。
組織人の真価は後退戦においてしばしば発揮される。
勢いに乗って勝つことは難しいことではない。
勝機に恵まれれば、小才のある人間なら誰でも勝てる。
しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。
「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は「攻めの経営」というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿らないものである。
けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難であり、高い人間的能力を要求するということである。
そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。
勝四郎の役割が何であるかは、もうここまで書いたからおわかりいただけたであろう。
彼は「残る六人全員によって教育されるもの」という受け身のポジションに位置づけられることで、この集団のpoint de capiton (クッションの結び目)となっている。
どんなことがあっても勝四郎を死なせてはならない。
これがこの集団が「農民を野伏せりから救う」というミッション以上に重きを置いている「隠されたミッション」である。
なぜなら、勝四郎にはこの集団の未来が託されているからである。
彼を一人前の侍に成長させること。そのことの重要性については、この六人が(他の点ではいろいろ意見が食い違うにもかかわらず)唯一合意している。
それは自分のスキルや知識を彼のうちに「遺贈」することによって、おのれのエクスペンダブルな人生の意味が語り継がれることを彼らが夢見ているからである。
****************************引用終わり
大きな敵(所謂「敵」でなくてもいいのかも。単に巨大な存在という意味であれば)に対峙することを余儀なくされている最小集団ではこの七つの役割を担う者が必要だと、黒澤明監督は考えたのですね。最低人数ですから重複することはありません。何よりもユニークなのは、勝四郎の存在であり役割です。
「人が生きるためにには物語が必要」、「人は物語を求める」と言われますが、「六人の侍」にとって、勝四郎とともに生きた「七人の侍」の物語は、どう転んでもまともな死に方をできない自分たちにとって、それぞれを支えるのに欠くことのできない「伝説」になるのですね。
興味のある方は、以下の本をぜひ読んでください。
『人はなぜ物語を求めるのか』
ちくまプリマー新書
そして、ふたつの「七人」に期待すること
さて、「髑髏城の七人」「七人の墓友」では、どのような七人として描かれるのか、そこの視点を絞って観にゆきたい。すくなくとも「単純に七人います」、ではないことを祈る。もちろん黒澤明監督とは違っていていい。
できれば新しい視点を組み込んだ芝居であることを望む。ただ、なぜ「七人」でなくてはならないのか、そこが納得いかせて貰いたい。「七」にどう拘ったのか、そこが知りたい。
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