劇団ソライロのみなさんに感謝します。
最高でした。
なぜなら、ということを、ダラダラと書きます。
ダラダラですので、「嫌だ」という方は読まないでください。
私にとっての良い本とよい芝居
普遍的な良い本のことは私にはとても言えない。あくまで私にとってだ。
私にとって最良の本は、何を言っているのかわからない本だ。ただし、こいつはとてつもなく凄い内容の本だということだけはわかる。難解で何を言いたいのかは、今の私には理解不能であるが、こいつを理解できる能力をいつか獲得したい。そういう欲望を喚起してくれる本がいい。一読で理解できる本は、即、ゴミ箱行きだ。
芝居も同じだ。エンターテイメントに徹した芝居も悪くはないが、観劇した後に余韻が残らないものは快感を得た記憶しか残さない。少々寂しい。
観ているときに何が言いたいのかさっぱり掴めないのだが、目の前の芝居から眼が離せない。釘付けになってしまう。そういう芝居を求めている。
えてして、こういう芝居は理解を超えているがゆえに、観劇後に反芻する機会が多くなる。その最たるものが、串田和美と亡き緒形拳の『ゴドーを待ちながら』だ。数ヶ月間、頭から離れずに難儀した。
久しぶりのMy 傑作作品
観たのは14日土曜日、ずっと考えている。夢にまで出てくる。(こいつは迷惑だ)
正直の言う。観ているときはよくわからなかった。「声帯のつよい役者が多いなぁ」なんて、あらぬ事も考えていた。終演したとき隣の人に「あそこはどういうこと?」と質問したくらいだ。
だからといって退屈していたワケじゃない。引きつけられる。ワカンナイのに。こういう矛盾した複雑怪奇な芝居や書物が好きだ。
きっと私は「わかりやすい」が嫌いなのだ。わかりやすいは、「悪」だとも考えている。世の中そんな単純じゃないよ・・・。人のことを単純に決めつけるなよ。
・・・・・私のことはどうでもいい・・・・・。
と、良いながらも私の妄想です
それを書きます。
もしあなたの考えと真っ向から対立することがあったら、ゴメンナサイです。
同様に、作者と劇団ソライロの皆さまからみて、「何言ってやがる。ワカッチャないなー」ということがきっとあるということも、
あらかじめお断りしておきます。
私の『ウラシマリンク』物語
『ウラシマリンク』最大の功績は、宮島ススムの「後悔」を擬人化したことにある。人間は動く物だ。だから、時間・場所・人格を持つ。ポイントは「時間」だ。こいつが厄介だ。
「時間」とは?と聞かれると、はたと返答に窮する。「今何時?」と聞いて欲しい。それなら答えられる。
わかっちゃいないのだ。すこしも。本当は「今何時?」も怪しいのだ。だって、相手が聞いてきたときの「今」は、答えるときには既に過去になってしまっている。それでも平然と「ちょうど九時だよ」なんて答えたりする。
今は面倒だ。もしこのことに疑問をお持ちの方がいらっしゃるのなら、国語辞典で「今」を引いてみてください。けっこう知らない意味があったりします。
今にこだわるの?
きっと宮島ススム氏もそう考えた。今を生きるために彼は過去を意図的に自分の都合のいいように変えてしまった。そこはユートピアだ。すべて自分が気分良く過ごせるように改変したのだから。「竜宮城」である。しかし現実世界に戻ると過去の後悔は、やはり忌まわしい過去である。だから、かれは過去を切り捨てる。
ここに一つの問題が生まれる。
「過去は変えられないけれど、未来は変えられる」という言葉がある。正しい。
「過去は変えられない」のです。でも「変わっていく」ものなのです。自然と過去は変化していきます。でないと、私なんぞは恥ずかしくてとてもじゃないが生きていられない。けっこう自分の都合のいいように過去はいつの間にか変化した状態で記憶しています。意図的に変えようとなんか誰もしていない。でもいつの間にか変化している。
ところが、宮島ススム氏はそれを意図的に変えてしまった。さらに悪いことにその後悔を切り捨てた。捨てたということは、過去の後悔の固定化です。もう変化できない。
トラウマ化してしまいました。
それを何度も繰り返しました。そして「塔」が出来上がります。
積もり積もったトラウマが「塔」を形成します。ゴレンジャーですね。
舞台中央にキューブが絶妙なバランスで立っていました。しかも、五人のキャラクターの登場に会わせて色が変化してました。凝ってましたね。
見終わって暫くしてから、やっと気づきました。みなさんはそんなことはないのでしょう。私はゴレンジャー系のTVをほとんど見ていません。だから鈍いのです。(言い訳です)
私がすぐに思い浮かんだのは「五輪塔」でした。
上から、
空、風,火、水、地
言い換えると、南、無、阿弥、陀、仏
でもあります。これらは宇宙の構成要素、この世はこれらの五つから成り立っている。つまりこの世のすべてでもあるわけです。ですからここで宮島ススム氏は思う存分世界を形成できたのですね。
竜宮城が可能だったのは、
各色のキャラクターは、宮島ススム氏が自分の理想とする状況に合致するように創り上げることができました。そこに宇宙の一切が存在していたからなのです。
「塔」として立っている、自立しているということは、垂直方向に重心が重なっているということでもあります。ですからこの塔は、宮島ススム氏そのものでもあるのです。危ういバランスで立っている。とっても危険な状況です。
さらば、トラウマ
彼は、その塔を外部から眺めていました。
しかし、かれはその塔の内部に入り込むことを決断します。アウロウのために。これが可能になったのは、「後悔」を擬人化しておいたからですね。宮島ススムの内面を語り出したら芝居と言えないでしょう。
入ってみて彼は、すべてが自分の為したことだと気づきます。自分から切り捨てて、バラバラだったものが、リンクを取り戻したのです。
宮島ススム氏は、トラウマから脱出しました。
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この辺にしておきます。いっぱい考えたので切りがありません。
説明不足のところもあります。正直書き足りない。
最初にお断りしましたが、上記の文章はあくまで私の「妄想」です。
ご批判もありましょうが、見逃してやってください。
謝 辞
ツマラナイ妄想ですが、私にとっては貴重な思考です。考える機会を与えてくれた『ウラシマリンク』と劇団ソライロのみなさん、作者の隅田健太郎氏に感謝申しあげます。
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